ふるさと物語 97 明治前期の行政組織(1)

「ふるさと物語」【97】〈昭和47年8月10日発行「広報しわ」(第205)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

明治前期の行政組織(1)

秋田戦争に敗れた盛岡藩が、官軍の前に降伏したのは明治元年九月二十一日のことでした。そして十月十日には、占領軍に対して盛岡城が明け渡されました。これに伴って、翌二年五月七日には、郡山町にあった日詰長岡通代官所と徳田伝法寺通代官所も閉鎖され、二百数十年にわたった領主支配はここに終末を告げることとなりましたが、これから明治二十二年の町村制施行までの間は、町村の行政組織の上にめまぐるしい変化がみられました。以下、そのあとを追ってみることにしましょう。
 まず、明治二年から同四年三月までは、藩政時代の村(後の大字)がそのまま踏襲されて行政区画をなしましたが、この間、村役人の名称に変更があり、明治二年には従来の肝入は名主と改められ、更に翌三年二月には村長と改称されましたし、従来の老名(おとな)は副村長と称されるようになりました。また同年には、日詰町・二日町・下町の従来の検断は市長と改められ、宿老(おとな)は副町長と改称されました。
 明治四年四月には、行政区間の一部変更が行なわれましたが、この結果、犬渕村は南日詰へ、升沢村は宮手村へ、山屋村は長岡村へ、船久保・紫野の両村は赤沢村へ合併されることになりました。
 明治五年六月には、市長・副市長及び村長・副村長を廃して、新たに戸長・副戸町を置くことになり、戸長は公選となりました。
 明治八年一月には、郡内を大小区に区画し、更に幾つかの小区をまとめて取扱うために「扱所」と称する役所を設け、ここに官選の戸長一名と副戸長一名が置かれました。当地方では、河西は第五区、河東は第六区に編入され、第五区では、10小区(日詰新田・二日町新田)11小区(桜町・北日詰)12小区(南日詰・犬渕)13小区(平沢・片寄)14小区(中島・陣ヶ岡・高水寺)15小区(北郡山・間野々)をまとめて第四番扱所を日詰新田に、16小区(白沢・太田)17小区(南伝法寺・岩清水・室岡)18小区(吉水・小屋敷・上松本)19小区(和味・北伝法寺)をまとめて第五扱所を室岡村に、20小区(升沢・宮手・下松本)21小区(土舘・上平沢・稲藤)をまとめて第六番扱所を上平沢村に置きましたし、第六大区では、1小区(手代森・黒川)2小区(大ヶ生)3小区(乙部)4小区(江柄・北沢・栃内)5小区(東西長岡)6小区(山屋)をまとめて第一番扱所を乙部村に、7小区(草刈・犬吠森)8小区(星山)9小区(大巻)10小区(彦部)11小区(佐比内)12小区(赤沢)13小区(遠山・北田)14小区(紫野・船久保)をまとめて第二番扱所を遠山村に置きました。そして、各村には一ないし四名の組惣代を置いて行政の末端としました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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