ふるさと物語 101 四代官所の末路

「ふるさと物語」【101】〈昭和47年12月5日発行「広報しわ」(第209)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

四代官所の末路

藩政時代のころ、本町内には、二日町には日詰長岡通代官所、下町には徳田伝法寺通代官所、上平沢村には八戸藩志和通代官所、上佐比内村には遠野南部氏の代官所と四つの代官所がありましたが、これらは明治になってどのような末路をたどったのでしょうか。本号では、そのあとをたずねてみることにします。
まず二日町と下町の代官所ですが、この二代官所の建物は、明治二年五月七日に政府へ引き渡されました。受取にきたのは松代真田藩の役人でした。この日、盛岡藩の代官は、表門と裏門に封印して引き渡した後、勝源院に移っています。ところが、この年の十月になると、二日町の旧代官所は、郡山部令所の役所として利用されることになりました。
部令所というのは、これまでの代官所と大体同じ性格のものでしたが、翌三年四月には、郡山部民事出張所と改称されています。この民事出張所は、同年九月九日には廃止となりました。そして、その後は第十八区の郡長会所として利用されたもののようですが、明治五年三月二日には、敷地と共に入札をもって民間に払い下げられています。なお、下町の方もこのころまでには払い下げになったと思われますが、はっきりしたことはわかりません。
次は上平沢村にあった八戸藩の志和代官所です。八戸藩は、奥州動乱の際、朝廷に対して積極的に反抗しなかったため、領地の没収はまぬがれました。従って、志和代官所も引き続き存続しましたが、明治二年四月には代官所の名称を廃して志和出張所と改称されました。その後、廃藩置県や県名変更にともなって、八戸県紫波出張所とか青森県紫波出張所と名称を変えながら明治五年に至りました。そして、同年三月一日には、岩手県への事務引き継ぎを終わって閉鎖されました。
最後に佐比内村のそれですが、ここの当番代官である小原定見が残務整理を終わって引き揚げたのは、明治二年九月六日のことでした。ここは、遠野南部氏の私設代官所でしたから、政府に引き渡すことなく処分されたものと思われますが、その後のことははっきりしません。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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