片寄城跡
最終更新日:2025年06月06日


 

指定区分

紫波町指定史跡

指定年月日

昭和50年(1975)3月25日

所在地

岩手県紫波郡紫波町片寄字中平

解説

 片寄城は奥羽山脈の東縁に位置し、小谷によって四つに分かれた丘陵に築かれた城館である。南館と北館が空堀でつながり、これが主郭と推定されています。城域は東西約400メートル、南北約300メートルにおよぶ。「今崎城」「柳田館」「吉兵衛館」「中野館」などの別名もある。
 本城は、足利家に通じる名門・斯波氏の家臣・片寄氏の居城と考えられているが築城時期など詳細は不明である。天正16年(1588)、南部信直が斯波詮直を攻略した後は、南部家重臣で九戸政実の実弟・中野康実(吉兵衛)が居城とした。その後、中野が郡山城代となり片寄城が破却された(『諸城破却書上』)が、城の一部を下屋敷として知行地支配に用いていたと考えられている。中野氏は盛岡南部家の重臣として、八戸氏・北氏とともに「御三家」呼ばれる家格を誇った。
 1970年代、東北自動車道建設に先立って実施された発掘調査では、15〜16世紀の城館に伴う多くの遺構・遺物が検出された。家臣団の屋敷跡、堀、土塁などが確認され、特に「東館」と呼ばれる曲輪では、片寄氏時代と中野氏時代に属する建物跡が重層的に発見された。これにより、城の変遷と長期にわたる武士団の活動が明らかとなった。さらに、12世紀前半以前の製作とみられる「秋草薄双鳥鏡」や陶磁器類も多数出土し、当時の武士や地域社会の姿を今に伝えている。


片寄城跡から出土した「秋草薄双鳥鏡」


※中野康実
 九戸政実の実弟であり、九戸弥五郎を称していたが斯波詮真の娘婿となり、高田村を与えられ「高田吉兵衛」と名乗った。天正14年(1586)、斯波詮直との不和から南部信直のもとに出奔した。信直は康実を厚遇し、中野を与え「中野吉兵衛康実」を名乗らせた(後に「中野修理康実」)。
 斯波勢の内情に通じた康実は、南部氏の斯波氏攻略における急先鋒として活躍し、高水寺城の陥落及び高水寺斯波氏の滅亡に貢献した。

 紫波町内の寺院には中野との関わりを伝えるものが複数見られる。二日町字北七区の久保山長岩寺は、中野修理康実を同寺の「中興開基」としている(紫波町史第1巻P236)し、彦部字暮坪の近城山長徳寺は、正康によって片寄四ッ屋に移されたと伝えている(康実の死後、子・正康によって現在地に移転。正康の子・元康の墓が現存、紫波町史第1巻P233)。

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